ハンディキャップ・プログラマ〜大いなる自己矛盾〜

プログラマとしての自分については、ある一定の自信をとりもどしたわけだが、かといって、左手が動かない分をフォロー出来る手立てがあるわけではない。右手でキーボードは叩けるが、当然スピードが出るわけではないし、画面を見ながら入力出来ない分、精度はさがる。ここに唯一脳に残った障害である「中央より左側の注意力が低下」が追い打ちをかける。

 

いままで、一瞥ですんでいた文章チェックや数字のチェックを注意深くやらなければならなくなった。逆に言うと、意識して注意すればリカバリ出来る範囲なのでよいとして、タイピングのスピードはいかんともしがたい。アウトプットに対する大きなハンディキャップだ。

 

さて、自分の武器の1つが刃ぼれしてしまった。社会人として、今後どう会社に貢献していくか、何を武器にするか、考える必要が出てきた。幸い、”考える力”はのこった。

お受験の道を歩んで国立大学に進学したぐらいなので、座学にはそれなりに自信はあったし、本を読むのも好きだ。ここは仕事に関連する知見を深めることと、エンジニアとしての技術力を深めることでアウトプットの品質を高め、タイピングが遅くなったことで失った生産性を埋め合わせるしかない。

頭を患った人間に残された最後の武器が頭脳だったのだ。こんなに自己矛盾をはらんだ、覚悟が必要なことはない。

 

ハンディキャップ・プログラマ 〜人生の選択〜

さて、いきなり復職を前提とした話に飛んでしまったが、復職に舵を切ったのにはキッカケがあった。

 

自分が119番によって運びこまれた病院は急性期病院だった。子供の頃から大病慣れしており入院も何度もしている自分だが、初めて聞く言葉だった。なんでも脳卒中と麻痺はそれぞれ別の病として扱われるらしく、急性期病院は脳卒中が重篤な時期を超えたら2ヶ月以内に出ていかなければいけないらしい。一般的には、ここから回復期リハビリテーション病院に転院し、(※)180日間入院してのリハビリに勤しむとのことで、自分も当然そちらに転院するかのような方針で進められていた。

 

リハビリ開始当初から完全に麻痺した左手を目の前に「タッチタイプ出来るまで回復させてください」と、当然のように言って、作業療法士を苦笑させるような自分である。併せてまだ40歳手前(先が長い)ということもあり、病院側としては身体機能の回復に重きをおくべきだ、と考えたようだ。

 

だが、自分の人生の使い方として、ここからあと半年休職して、リハビリにのみ専念するという選択肢は全く考えなかった。妻は妻で、リハビリ以外はご飯を食べて寝転がっているような生活を続ければ、仕事人間である自分の心が死ぬと思っていたようだ。加えて、仕事で忙しい妻に、自宅と病院の往復と言う負荷をかけたくなかった。だがもちろんリハビリしないわけにもいかない。

出した結論は、平日毎日午前はリハビリで通院し、午後からは在宅で復職という道だった。

そんな生活を始めて3週間だが、なかなかのハードワークである。慣れるまでにはしばらくかかりそうだ。

 

※フォローしておくと、入院させるのは転倒防止の意味もあるようだ。手足とも麻痺している為、転倒しやすい上に転倒しても受け身を取れないと言うリスクがある。リハビリである程度回復してから退院させたいという医療側の気持ちも分からないではない。

 

ハンディキャップ・プログラマ 〜自分の証明〜

僕はまだやれる。と格好はつけてはいるが、あくまでも理屈の上での話で、実際にプログラミングをするのに必要な脳の機能に障害がのこっていないか?は実際にやってみないと分からない。

 

折しも、退院し元職に復帰する旨を伝えた病院側から「本当に復職できるのか確認してください。」という、なんだか自尊心をひどくえぐられるような話をされていた。生まれつきの跳ねっ返りな性格でなにくそっ!と上げてはいけない血圧をあげながら、もちこんだノートPCを目の前にはて、どうしよう?と頭をひねった。

 

片手でのプログラミング自体まだ慣れていない上にテザリングでのネット接続もあまり快適とはいえない、ということで、API使えばすぐ出来るだろうとたかをくくり、QiitaのContributionでユーザをソートするスクリプトを作り始めた。言語は以前から触ろうと思っていたPythonを選択。(尤もこの目論見はハズレ、思いの外手こずることになった)本当に簡単なコードしか書いていないもののプログラミング自体はとても楽しみながら、集中してすすめる事ができ、論理的にものを考えて、それをコードに落としこむ能力と集中力に問題がなさそうだと、自信が持てた。

 

既に現場からは離れている中間管理職の自分にとって、プログラミング出来ることが「復職して今までどおりに働けること」の証明にはならないが、自分の根幹に関わる部分に自信が持てたのは、油断すると不安で潰れかねなかった当時の精神状態を考えれば、かなり大きな事だった。

 

ハンディキャップ・プログラマ 〜プログラマとしての自分〜

結論からいうと、プログラマとしての自分が死んだつもりはない。社会人としても。

運良く自分は脳卒中で”自分自身”を失わなかった。

 

今思うと不思議なもので、プログラマとしての自分の生き死には心配していたが元職に戻れるかどうかを心配してことはなかった。おごりだろうか。余裕がなかっただけだと思いたい。

 

社長は、自分が倒れた当初から「頭だけ無事でいてくれれば」と言っていたらしい。聞いた当初は「人格無視か!」と憤っていたものの、今にして思えば、手足が不自由なじぶんを受け入るという麻痺を見越したうえでの、彼なりの優しさだったと思っている。

 

3年弱仕事をさせてもらっているお客さんにはわざわざお見舞いに来てもらった時に「左手動かない?今までよりプログラミング少し遅くなっただけでしょ。あなたの本分はそこじゃないでしょ(自分が買ってるのは思考力だ)」と遠回しに励ましをもらった。

 

自分が普段尊敬している人たちに只々励ましてもらえたことには感謝しかない。冷静にかんがえれば、右手だけでもプログラミングはできるのだ。プログラマとしての自分の生き死にを決めるのは自分だったのだ。30年鍛えた論理的思考回路は生きている。

 

ウジウジしている自分に活をいれてくれたのは同室のおじいちゃんだった。御年86歳糖尿病で片足は義足のおじいちゃんがいうのである「90歳待まではは畑をやる!90歳になったら施設に入る!」おいおい、37歳の若造が悩んでる場合じゃないよ。

 

僕はまだやれる。

 

 

 

 

 

 

 

 

ハンディキャップ・プログラマ 〜そして、現実を知る〜

自分の置かれた状況を客観的に理解するのに倒れてから一ヶ月を要した。明らかに半身が麻痺して大変な事になっているのに、それをリアルとして受け入れ認識するのには脳卒中と麻痺という病が、まだ30代の自分には縁遠い存在すぎた。

 

どうやら、自分の体は元通りになるのは難しいと理解し始めたのは一般病棟にうつってしばらくたった9月も中旬だった。トイレにも自分の足ではいけず、ちょっと、どこかに力がはいると、自分の意思とは関係なく、筋緊張が走り固く握られる左手を目の前に「あれ?自分、人生的にやばくね?」と自問が始まった。

 

作業療法士タッチタイプの復活は難しいという(腕も満足に上がっていなかった)、自分の足でトイレにも行けない(当時)、あれ?社会復帰とか無理じゃね?どうするんだ、自分?

 

社会人としてもそうだが、夫としての自分にも存在価値を見いだせず、自分のレゾンデートルを問い続ける日々が始まった。が、自分の存在理由で悩んでいるぐらいは可愛いものだと後に気づくことになる。

 

脳に障害をもつというのは、病気慣れしていても、気難しく理屈っぽい自分には、受け入れるにはやっかいすぎた。

ハンディキャップ・プログラマ 〜左手が動かないっぽい?〜

脳卒中発症時、左半身麻痺と書いたが、実は足は少し動いていた。左手はピクリとも動かず、頭のなかではいつもどおり動かしているのに実際はピクリとも動いていない、そんな状態だった。

 

記憶がおぼろげな集中治療室生活だが、3日目ぐらいに「やべっ、このままだとプログラマ廃業じゃね?」と焦ったのを覚えている。しかし、記憶が混濁していたような時期の話なので、すぐにうつらうつらと眠ってしまい、そう深刻にはならなかった気がする。尚、自分の置かれた現状踏まえ、改めてこの問題に恐れおののくのは9月も中旬に入ってからとなる。

 

実は集中治療室生活中、何故か肺に水が溜まってしまい、リハビリ開始が遅れていたそうだ。なんでも倒れた直後からとっととリハビリを開始するのが鉄板だそうで、当時かなりあせったと、担当の理学療法士に後から聞かされた。(足が)ここまで回復できてるんで、言えるんですけどね、というコメントと共に。

ハンディキャップ・プログラマ 〜そして、時はきた〜

倒れた時の事は、よく覚えてる。

 

早朝、大を催し、トイレへ。この時、気張った際に脳の血管が切れた模様。トイレから出るときに、左手で持ったiPhoneが上手く持てず、床に落としたのを覚えている。

 

炭酸飲料が飲みたくなり、冷蔵庫をあけた瞬間に倒れ、その音で妻が起きだしてくれたおかげで、早期発見につながった。意外に冷静に、左半身の自由が効かなくなっている事を妻に伝えることが出来てきていたように思う。

 

救急隊員にもはっきりと受け答えはしていたように思うが、病院についたあたりから記憶があやふやになっている。次に目が覚めた時は集中治療室で妻が傍らにいた気がする。

 

気がする…というのは集中治療室にいた1週間の記憶がはっきりしないからだ。病院関係者とも、いろいろやりとりしていたような気がするがこれがはっきりしない。意識が混濁するとは、こういうことなのだと自分には言い聞かせている。