ハンディキャップ・プログラマ〜そして日常に還る〜

当初の予定では、9月末に退院としていたが、自前の装具の完成を待つと言う名目で入院してのリハビリ期間を稼ぐという作戦が発動され、脳卒中での急性期病院への入院期間としては長い80日間の入院となり、10月末に退院した。

 

真夏に入院した自分だが冬の到来が早い北海道ではそろそろ冬の足音が聞こえる頃の退院となった。失ったものが小さいとは言わない。だが、一人の人間として貴重な経験をしたし、人間として成長したと思っている。これを帳消しにするのか、プラスにするのか、は自分次第だと思っている。

 

退院して一ヶ月たったが、社会人として充実した日々を過ごせている。人生を諦める時じゃない。頑張ろう。

 

入院体験をもとにした回顧録は本日までとしたい。ハンディキャップを背負って生きていく日々は続く。今後はそんな中で感じたことを発信していければと思う。

 

ハンディキャップ・プログラマ〜麻痺と向き合う〜

一番の悩みの種というか、今の自分と向き合わなければならないのが、手の機能回復が主目的になるリハビリ、作業療法だ。

 

本来であれば、脳卒中で奪われた脳の思考する機能の回復も担うらしいのだが、幸い、自分はそちらのお世話にならずにすんだ。

 

倒れた当初、ピクリとも動かなかった腕だが、入院中に肘をある程度コントロール出来る程度までは回復していた。が、プログラマの仕事道具である指については、いまいち芳しくなかった。それでも、握る方には少しは動くぐらいまでは回復している。

 

この指を動かすというのがなかなか高度な機能で、特に指を伸ばすと言う機能と、指をそれぞれ個別に動かすという機能がなかなか回復しないとの事で日々精進とはこの事だと自分に言い聞かせる日々だ。何しろ”指の動かし方を思い出せない”のである。麻痺というと痺れるイメージがあるが、実際は*動かし方が分からない*のである。リハビリは半ば修行の様相である。

 

今日も、モンハンXをプレイする日を夢見てリハビリに勤しむ自分であった。

 

 

ハンディキャップ・プログラマ〜守られたもう1つの武器〜

通院によるリハビリに切り替える際、回復見合いで終了とさせたリハビリがある。

言語療法がそれである。退院も近くなった頃「電話で話をして、問題なく会話できれば終了にしましょう。」と、担当のS氏と話をし、無事クリアしたからである。

 

言語療法では、主に顔面麻痺からくる会話に関する障害や、脳に外から見て分からない障害が残っていないかの検査を繰り返した。前者に関してはもともとベシャリに自信があった人間で、しゃべるのが好きなので、あれこれ雑談を繰り返すうちに回復した気がする。もっとも、しゃべりにくくはなったので、必殺マシンガントークはできなくなってしまったが、S氏に「話し方が丁寧になって、優しくなった印象がでるかもしれませんね」と言われ、もともと話し方がきつかった自分にとっては、そう害はないかなと思っている。

 

後者に付いては、左側の注意力が落ちているという障害がのこってしまったが、まぁ、自覚して注意すれば大丈夫でしょうというレベルだったので、それほど深刻には受け取っていない(チェックすることへのエネルギーの使い方の変更には四苦八苦しているが)。

 

さて、さり気なく紹介したS氏だが先日紹介したU氏と個人的に仲がいいらしく、リハビリという雑談のなかで、よくU氏の個人情報がだだもれになり、こちらが対処に苦慮した記憶がある。もっとも、雑談の中で知り得た自分の個人情報もU氏にだだもれだったようだが。

 

一見、いわゆるチャラ男風の彼、人の良さそうな笑顔と共に何気ない会話から相手の懐に入り込む手腕にはその片鱗が見え隠れするのだが、やはり言葉の端々に高いプロ意識と勤勉さを感じさせるのである。なかなか侮れない。何より、顔面が麻痺し、何を話しているのかよくわからないのを、本人があまり意識できていない中、自慢のベシャリを駆使出来るところまで回復させてくれた彼にもやはり感謝の言葉がないのである。

ハンディキャップ・プログラマ〜理学療法と言う名の○イザップ〜

担当の理学療法士であるU氏、彼との出会いは、今回の一連の騒動で、尤も運命的だった出会いと言わざるを得ない。

 

麻痺を患ったことで多くのリハビリ技師と接したが、彼ら・彼女らからは業界は違えど、プロのエンジニアとしての姿勢やプライドを感じるシーンが多々あった。広義の意味でのエンジニア臭を放つ人が多い中、若いながらも、確固たる技術と言葉の端々から漏れ出る高いプロ意識に裏打ちされたやや年齢不相応な自信、そしてその自信からくる若干鼻につく言動、自分の若い頃を連想させる彼に親近感を感じずにいられなかった。

 

彼のリハビリを受けだして2週間もたった頃だろうか、彼が休みの日に担当してくれる他の技師に身に覚えのない同情をされている自分がいた。曰く、U氏のリハビリ厳しくて大変でしょう、というのである。リハビリをうけること自体初めての自分は、比較する対象もなく、ただひたすら日々、黙々と促されるメニューをこなしていたのだが、どうやら、かなりきついメニューだったようだ。動かなくなった体を動かすのであるこんなものだろと勝手に納得していたが、違ったらしい。彼に真偽の程を確認すると、さも当たり前というくちぶりで「若いんだから厳しくしてしっかり回復しないと困るでしょう」とのたまうのである。なんとも生意気なやつである。

 

しかし、そんな彼は持ち前のプロ意識から、いつしか病院側とこちらの橋渡し的な役割を果たした事と、丁寧なインフォームドコンセントに沿ったリハビリで、全幅の信頼を自分から勝ち取っていった。こ、こころを完全に許したわけじゃないんだからねっ!///

 

そんなドSの彼のもとに足繁く通う日々は続く。左半身麻痺という絶望的な状態から、自由に歩ける体にしてくれた彼には、感謝の言葉もない。入院中滅入らずにいられたのは、彼が話し相手になってくれたのも大きいだろう。リハビリが落ち着いたら、一緒に一杯と勝手に心に決めている自分なのである。

 

 

ハンディキャップ・プログラマ〜そして示される退院への道標〜

色々な事情が絡みあったとはいえ、倒れて1ヶ月あまりで退院して復職する方向で舵を切ったわけだが、当時の身体機能を考えれば、客観的に見て、「お前は何を言っているんだ」という有名なネットスラングを送りつけたい気分だったろう。

 

トイレには、看護師同伴(見守り)+装具でなんとか行ける状態で、裸足での歩行はまだまだ無理だった。腕は相変わらずオワコン状態だし、顔面の麻痺も完全に治ったとはいえず、まだ"ら行"の発音等怪しかった記憶がある。

 

在宅での職務復帰については、妻が会社と掛けあってくれて早々にOKはでていたが、妻が会社に行っている間、自宅で一人で自活出来るかと言われると、周囲は皆はてな顔の状況。一方、退院の時期や目処に付いては、担当医からこちらにバトンが渡っていたので、こちらの一存で決められる(決まる)状況。

 

いろいろ悩んだが、退院しても妻に介助で負担をかけては意味が無いと、自活出来ること…担当医の言葉を借りると「最低限、自分の生命を維持できる状態になること」が出来るようになった段階での退院とした。

 

「最低限、自分の生命を維持できる状態になること」…仰々しい表現だが、自分だけで食べて、寝て、トイレに行けるぐらいの身体機能の回復を目指す事になった。

ハンディキャップ・プログラマ〜本当に怖いこと〜

脳を患って本当に怖かった事。まだ、完全に乗り越えられたわけではない事。それは、自分は本当に自分なのか?と言う若干哲学めいた問題だ。家族や、お見舞いに来てくれた会社の同僚は話しぶりから、以前と変わりないという。どうやら激変しているわけではないようだ。

 

でもなんだか、以前より感情を抑えるのが苦手になった気がする。忘れっぽくなってる気がする。そんな目に見えない誰も答えを知らない不安に押しつぶされそうになった。

 

極めつけは、いまの"自分"が脳の障害で明日には消えてしまうんじゃないか、今晩この瞬間寝てしまったら消えてしまうんじゃないか、明日には別人になってしまうんじゃないか…生き残ったお得意の論理的思考回路がそんな答えのないことで悩んだり不安を感じるのは意味がないと言っているのに、心の奥底から湧き上がる不安をおさえきれず、睡眠導入剤を使っても、夜は眠れなくなった。

 

中学生時代、近代哲学にハマり、書を読み漁り、デカルトの”我思う、故にわれあり”というかの有名な言葉に感銘をうけた少年が20年後、その言葉の本当の重みを実感することになったのだ。皮肉もここまでくると笑うしかない。

 

この問題に対する答えは出なかった。ただ、夜寝て朝起きて、”自分"が残ってることが当然になるぐらい実績を積むしかないという結論に落ち着き、日々を過ごしている。

ハンディキャップ・プログラマ〜とある看護の見習女子〜

時期的には、自分に何が起こったかを理解した頃、シルバーウィーク直前といった頃だろうか、おもむろに看護師 専門学校の学生の受け入れをお願いされる。腎臓を悪くしていた子供の頃の入院で同様のお願いをされ、悪い思いをした記憶がなかったのもあり(子供の頃の話なので、暇な入院生活に遊び相手が増えた程度の感覚だった)、自分が40歳手前のおっさんになっている事実をすっかり失念した状態で快諾していた。

 

実際に彼女がやってきたのはシルバーウィーク明けだったと記憶している。そう、気軽に引き受けたものの相手は20歳もそこそこの女の子だった。少し考えれば分かる話なのに、実際に会うまで全く考えていなかった。

 

日に焼けた肌が元気印のとても素直で一生懸命な女の子で、慣れない手つきでのバイタルチェックが初々しかった。1週間もした頃にはすっかり打ち解け、毎日彼女の雑談とも人生相談ともとれる世間話に妹に接するような気持ちで受け答えをしている自分がいた。

 

若い女の子が付いて良いですね、的なセクハラ発言的なことをいう人もいたが、一回り以上も年下の"女の子"としか表現できないような相手にどう懸想したらええねん、と内心ツッコミをいれていた。

 

とにかく麻痺のことを気にしてくれて、左手のリハビリに懸命に付き合ってくれた彼女は、3週間弱で次の研修に旅立っていった。去り際の"忠告”は「いつも自主練だ、自己研鑚の為の読書だ、と、入院中にも関わらずゆっくりしているところを見たことがない。休むことも覚えてくださいね」だった。妻にそれを伝えたところ「3週間ぐらいしか付き合ってない女の子に見ぬかれてるじゃない(ププ)」と言われ、妙に恥ずかしい気持ちになったのを覚えている。

 

彼女が将来立派な看護師になってくれるのを祈るばかりだ。